按察

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88

 萩とはこれほど見応えのある花なのかと、可須水は初めて思った。
 一面の萩である。
「わあ、すごい」
 しずくが、両手を広げた。
「どうぞ、いくらでもお摘みになってください」
「ありがとうございます。それでは、お言葉に甘えて、少しいただいて参りますわ」
 可須水が、深々と頭を下げた。しずくもならった。
 三人は、萩を摘みながら、とりとめもなく、雑談を交わした。
 そのうちに、
「近江のことは、なにかうかがっていらっしゃいますか?」
 と、可須水が、切り出した。
「いいえ、私もなにも存じ上げないのです」
 可須水は、やはり無理かと思った。可須水が知り得るのは、この尼から伝えられることまでであった。おそらく備前としずくもそうだろうと可須水は、思っていた。それでも、訊かずにいられなかった。なんで、近江は、いつまでたっても越前に入らないのだろう?
「しかし、越前に近江の鎮圧部隊が行くことは、決まったのではありませんか?」
「私もあなたと同じ思いですわ。どうしたんだろうと。しかし、存じ上げないことは、申し上げられませんので」
 尼は、気の毒そうな表情をしていた。
「お渡ししたものに書いてあるかもしれませんわ」
 可須水が不満そうなので、尼はなだめるように言った。
 可須水は、念仏堂で受け取ったお守りを開けようとした。
「待って、ここで開けるのはご遠慮ください。私は、そこに書かれた内容を知ってはならないのです」
 尼の声が鋭くなったので、可須水は、お守りをまた懐にしまい込んだ。
「ほんとうにごめんなさいね」
 尼は頭を下げた。
「そんな、私の方こそ、困らせてしまいまして、申し訳ございません」
 可須水も頭を下げた。しずくもならった。
 しかし、なぜ尼は外へ連れ出したのだろう? 可須水は思った。今までにも尼が外へ連れ出すことはあった。もっとも、この尼に限らず、ほかの尼たちも、親しくなった参詣者と外へ出て、なにかを食べたり、見たりすることは、非常に多い。だから、そのぐらいのことで、だれかが不審に思ったりするようなことなどないし、この尼だけが、特に可須水たちとよく出かけるということでもなかったので、余計にそうであった。しかし、この尼が、可須水たちを連れ出すときは、やはり、なにか特別な意図が必ずあったのだった。だから、今回もきっとなにか意図することがあるはずなのである。
「では、萩も十分にお摘みいただいたようですし、戻りましょうか」
 結局、今回はなにもないのかと思った可須水は、明るく、
「ええ」
 と、言った。
 一面の萩の花畑を引き返していくと、途中に萩が途切れて、向こうの方に通じる小道になっているようなところにさしかかった。すると、尼は立ち止まり、
「もし、お時間がございましたら、あちらにご案内いたしますが」
 と、可須水たちを振り返って、言った。
「あら、この奥になにかあるのですか? 私は、時間がたっぷりありますので、ぜひお願いいたします」
「私も、暇ですので、お付き合いいたしますわ」
 しずくも即座に同調した。
 三人は、萩の花畑の中を、しばらく歩いた。ほどなく小さな滝が見えてきた。その水が落ちてたまっている淵の周囲を歩き、崖下の滝の横で、尼は立ち止まった。大きな岩を両手で抱えると、軽々と持ち上げた。
「あら」
 可須水たちが驚きの声を立てるのも気にせず、尼はなんでもないような調子で言った。
「こちらは、昔、政争を逃れた人たちが、隠れるのに使われたそうです」
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 按察
◆ 執筆年 2023年8月5日