按察

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 萩の横に立って、可須水は考えた。
 なぜ、尼はこの場所を教えたのか。噂には聞いていた。だが、可須水は今まで教えられたことはなかった。木いちごもしずくも、そうであるはずだと、可須水は思っている。
 その場所を教えられるのは、次の四つの場合だけであった。
 一、立場が変わるとき。
 一、緊急事態が発生したとき。
 一、知りすぎたとき。
 一、裏切ったとき。
 可須水が尼のような立場になることは、あり得ることである。たしかに、可須水は今までにも、そのようなことを打診されたことが何度かあった。しかし、そのたびに辞退し続けていたのだった。可須水は、生家が没落し、遊女になりかけたところを、近江派に救われた。そのときに、可須水は自分の命に代えても、この恩義に報いようと誓った。可須水は、自分の命はもう自分のものではないと思っている。この命は、自分の恩人が窮地に陥ったときのために、使わなければならないものである。それは、可須水の生きる力そのものであったのだった。
 出家をして、前線から退き、指令系統を分担する立場になれば、それは、上位階層への所属を意味する。可須水が望めば、それを実現することができたが、それをしなかったのには、先ほどの事情以外にも理由があった。可須水は、現場が好きだったのだ。全体構造を理解して、末端の人々を動かすよりも、自分が末端の一人として、現実世界と向き合うのが楽しいのである。これは、可須水の性格であろう。現実世界の中で立ち働けば、さまざまな人たちと知り合い、思いもかけない場面にも遭遇する。それが、面白いのである。こういう可須水であったから、一つ目の原因は、可能性が高くないと、可須水は見た。
 次に考えられるのは、なにか非常事態が起こったのではないかということだった。これが、いちばんあり得ることだと可須水は思った。それは、なぜかというと、やはり越前の件があるからである。越前のことは、可須水には、不審であった。賊が暴れまわっている越前を支援するために、宮中で大納言が近江を派遣すると提案し、それが認められた。しかし、近江の武士は、まだ動かない。そういうことを、可須水は、近江派筋の連絡という形ではなく、漏れ伝わる世間の噂という形で、どうやらそうらしいと推測している。近江派の指令系統からは、動いたとも動かないとも、一切情報が入らない。こんなことは初めてであった。だから、可須水が、なにか想定外の事態が起こっていると判断しても、それは、当然のことである。なにかがうまくいっていないのは、間違いない。たとえ、それが、越前への部隊派遣の件ではないにしても、なにか不測の事態が起こっているのは間違いない。
 次に、可須水が考慮したのは、自分が知るべきではないことまで、知り得てしまったのではないかという可能性である。可須水は考えたが、こればかりはよくわからなかった。可須水は、こういうことにかけて、人一倍気を遣う方であったが、自分が知ってよいのか、知ってはならないのか、それは、近江派の中枢にいる人間が判断することである。自分はたいしたことではないと思っても、中枢からすると、とても困るということもあるのかもしれない。そういう判断について、末端にいる可須水が完全に把握するのは、無理である。できるだけ危険水域に近づかないようにするほかはなかった。
 最後に、可須水は、裏切りということを考慮してみた。従者たちの中には、近江派から摂津派に転身するものが、まれにいる。また、金やなにかのために、情報を漏洩する者も、いなくはない。だが、可須水は、むろんそういうことはしなかった。
 可須水は、尼に直接、ここへ連れてきた理由を訊いてみることにした。すると、尼は笑った。
「ごめんなさい。心配させてしまったようですね。特に、特別な理由があるわけではないのです。ただ、少しお話をしようと存じまして」
「どのようなお話でしょうか?」
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 按察
◆ 執筆年 2023年8月5日