All You Need Is Book(本こそすべて)

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  『黒い雨』井伏鱒二

 絵描きになりたくて、京都の画家に入門しようとしたが、断られた。「小説家になりなさい」と兄に言われ、それなら早稲田の文科が早道だと思い、早稲田に入った。ここには書きにくい理由で早稲田を中退した後も、早稲田界隈で青春時代を過ごした。「この日本のカルチェ・ラタンを抜きにして井伏文学は考えられない。」(『井伏鱒二 人と文学』河盛好蔵)
 中高生にもよく読まれる名品、『山椒魚』(当初は『幽閉』という題だった)は最初、文芸評論家に「古臭い」と片付けられてしまったそうだ。だがこれを読んだ、当時弘前中学一年生の太宰治は非常に感動したらしい。小説家になろうと思った太宰が初めに井伏の門をくぐった理由はこの辺にありそうだ。小林秀雄も『山椒魚』を読み、まだ無名の新人だった井伏の才能を激賞した。
 のちに太宰に石原美知子を紹介し、生活を立て直させたのも井伏である。その様子は太宰の『富嶽百景』にも描かれている。ただ、晩年の太宰は井伏を避けていたようだ。しかし、二人の文章を読み比べてみると、やはり師弟、相通ずるところがあるように思う。
 言わずと知れた原爆文学である。広島で被災した何人かの日記を下敷きに執筆したもののようだ。井伏は本来極めて静かな語り口であり、また、一生活者の視点で、日常と連続した事件として描いているので、気分を煽られることなく読み進めていくことができるのが特徴である。
 我々は爆撃、ことに原爆投下後の惨状を、自分たちの生活とは全く別の世界の状況と思っており、想像すらできない。たしかに、体験したことのない大事件だが、実際にこのような作品を読んで感じるのは、それでも人々は日常生活を送っていかなければならないということだ。そして、どのような状況であっても、日常の中に生きる人々の一つ一つの行為や感情は、我々と何ら変わることがない。そのことに気づいたのは、今回『黒い雨』を読んでの大きな収穫だった。我々の日常からは想像もできない過酷な戦時下での毎日であるが、七十パーセント、いや八十パーセントは、我々が思い、行動し、考えることと同じである。そう思ったら、戦争についての認識が今までとは違った気がするのだ。
 太宰の師匠だなあと感じたところがあった。医師の奥さんが広島で被爆した夫を捜しに出かける場面の、女性の一人称の語りが、『皮膚と心』、『ヴィヨンの妻』あたりの太宰によく似ている。弟子の太宰が井伏に似たのだろうなあと思いつつ、いろいろ読み比べてみたくなった。(2010/11/15)
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 All You Need Is Book(本こそすべて)
◆ 執筆年 2010年10月15日~