All You Need Is Book(本こそすべて)

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『帰郷』大佛次郎
旅が旅を生む。旅の途中で出会ったものが次の旅のきっかけになることがままある。本も同じだ。ページを繰る間に出会ったものが次の読書のきっかけになり、手探りで始めた読書に、方向性が与えられてくる。『古都』を読んでいたら大佛次郎の名文に行きあたったのだ。しかし、それは短かった。それで、大佛次郎を何冊か読んでみた。
大佛次郎は昭和初期を中心に活躍した流行作家である。出す本出す本次々に売れて、舞台や映画でも大好評を博した作家たちというのを調べてみると、明治では、江見水陰、渡辺霞亭、村上浪六、石橋思案、昭和では、牧逸馬、長谷川伸、獅子文六などが挙げられる。長谷川伸は股旅物、牧逸馬は丹下左膳、そして、大佛次郎は鞍馬天狗の生みの親だ。鞍馬天狗も面白いが、今回は昭和初期の現代小説である『帰郷』を取り上げることにした。それにしても、一世を風靡していた大流行作家の作品のほとんどが現在入手困難になってしまっているとは、なんとも感慨深いものがある。
戸籍上は死亡していることになっている、海軍将校の守屋恭吾は、欧羅巴、マレーシアで孤独に生きていた。背信行為の責任を一人で背負い込み帰国できなくなっていた彼が戻れたのは、皮肉にも敗戦で軍が消滅したためだ。
複数の主要人物のストーリーが、同時進行しながら徐々に進んでいくため、初めのうちはもどかしい。しかし、彼らの人生が一つに焦点を結ぶ後半部は、本を手放すことが出来なくなる。守屋恭吾、高野左衛子、隠岐達三、守屋伴子といった、自覚的に生きる人たちが、運命のいたずらで互いを不幸に陥らせる。彼らの愛と憎しみが交錯するさまが、絶妙に描き出されている。
魅力的な人物は、左衛子だ。戦中のマレーシアに単身出かけ、自由に行動する彼女には度肝を抜かれる。戦争におびえ、小さくなって家を守る国防夫人の姿が、戦時中の日本女性に対する先入観としてあるからだ。初めのうち大変奇異に映る彼女の行動は、後半の謎解きによって深く納得できるものに変化する。封建社会を生きる女の沈潜した憤りは、才能豊かで、自由な新しい女、「左衛子」、の旧華族の夫への鮮烈な宣言によって、威勢よくぶちまけられる。それにしても、戦後、理想に燃えて生きる当時の人々が、エネルギッシュに思えて仕方ない。今の日本にも、左衛子のように鮮やかに切り開いていこうとするたくましい人がどんどん現われるとよいと思った。
おさらぎじろうと初めは読めない。このペンネームは鎌倉の大仏にちなんでいるそうだ。自然や町並み、歴史的建造物を保護するナショナルトラストという運動をご存じだろうか。鎌倉をこよなく愛した大佛次郎は、宅地開発ブームの波が鎌倉に押し寄せた昭和中頃、市民と一緒に古都の町並みを守ろうとした。これが日本におけるトラスト運動の第一号といわれている。『帰郷』でも、守屋恭吾が牛木大佐と北鎌倉の円覚寺を訪れる趣深い場面が出てくる。(2011/2/8)
旅が旅を生む。旅の途中で出会ったものが次の旅のきっかけになることがままある。本も同じだ。ページを繰る間に出会ったものが次の読書のきっかけになり、手探りで始めた読書に、方向性が与えられてくる。『古都』を読んでいたら大佛次郎の名文に行きあたったのだ。しかし、それは短かった。それで、大佛次郎を何冊か読んでみた。
大佛次郎は昭和初期を中心に活躍した流行作家である。出す本出す本次々に売れて、舞台や映画でも大好評を博した作家たちというのを調べてみると、明治では、江見水陰、渡辺霞亭、村上浪六、石橋思案、昭和では、牧逸馬、長谷川伸、獅子文六などが挙げられる。長谷川伸は股旅物、牧逸馬は丹下左膳、そして、大佛次郎は鞍馬天狗の生みの親だ。鞍馬天狗も面白いが、今回は昭和初期の現代小説である『帰郷』を取り上げることにした。それにしても、一世を風靡していた大流行作家の作品のほとんどが現在入手困難になってしまっているとは、なんとも感慨深いものがある。
戸籍上は死亡していることになっている、海軍将校の守屋恭吾は、欧羅巴、マレーシアで孤独に生きていた。背信行為の責任を一人で背負い込み帰国できなくなっていた彼が戻れたのは、皮肉にも敗戦で軍が消滅したためだ。
複数の主要人物のストーリーが、同時進行しながら徐々に進んでいくため、初めのうちはもどかしい。しかし、彼らの人生が一つに焦点を結ぶ後半部は、本を手放すことが出来なくなる。守屋恭吾、高野左衛子、隠岐達三、守屋伴子といった、自覚的に生きる人たちが、運命のいたずらで互いを不幸に陥らせる。彼らの愛と憎しみが交錯するさまが、絶妙に描き出されている。
魅力的な人物は、左衛子だ。戦中のマレーシアに単身出かけ、自由に行動する彼女には度肝を抜かれる。戦争におびえ、小さくなって家を守る国防夫人の姿が、戦時中の日本女性に対する先入観としてあるからだ。初めのうち大変奇異に映る彼女の行動は、後半の謎解きによって深く納得できるものに変化する。封建社会を生きる女の沈潜した憤りは、才能豊かで、自由な新しい女、「左衛子」、の旧華族の夫への鮮烈な宣言によって、威勢よくぶちまけられる。それにしても、戦後、理想に燃えて生きる当時の人々が、エネルギッシュに思えて仕方ない。今の日本にも、左衛子のように鮮やかに切り開いていこうとするたくましい人がどんどん現われるとよいと思った。
おさらぎじろうと初めは読めない。このペンネームは鎌倉の大仏にちなんでいるそうだ。自然や町並み、歴史的建造物を保護するナショナルトラストという運動をご存じだろうか。鎌倉をこよなく愛した大佛次郎は、宅地開発ブームの波が鎌倉に押し寄せた昭和中頃、市民と一緒に古都の町並みを守ろうとした。これが日本におけるトラスト運動の第一号といわれている。『帰郷』でも、守屋恭吾が牛木大佐と北鎌倉の円覚寺を訪れる趣深い場面が出てくる。(2011/2/8)