All You Need Is Book(本こそすべて)

All You Need Is Book(本こそすべて)
prev

8

  『さぶ』山本周五郎

 ペンネームは先入観を生む。山本周五郎という名前だけ聞けば、いかにも時代小説の大家で、文壇の重鎮、頑固でへそまがりでとっつきづらい、などと思ってしまったりする。ところが、このペンネームは思いがけないミスから生まれたという説がある。若いころ、出版社に応募した小説の一つが賞をとったとき、編集者が、彼の下宿先の戸主の名を、彼の名だと勘違いして、雑誌に掲載してしまったというのだ。それはさておき、肉親同様に世話をしてくれた山本周五郎という下宿先の主人を、彼が生涯尊敬していたというのは事実である。
 人々から忌み嫌われ蔑まされた「人足寄場(にんそくよせば)」という場所がこの小説の舞台だ。ここは、池波正太郎の『鬼平犯科帳』でも知られる、火付盗賊改方(ひつけとうぞくあらためがた)長官、長谷川平蔵により、軽犯罪者などの更正施設として、寛政二年、江戸隅田川河口の石川島に設置された。
 男前の職人、栄二が主人公。さぶのほうはその名のとおり脇役で、愚鈍で格好悪いが、心優しくて、なかなか味のある字を書いたりする。
 腕の立つ職人として信頼され、順調な毎日を過ごす栄二は、ある大店(おおだな)の旦那に疑われ、詳しく調べられることもなく、無実の罪で人足寄場に送られる。憎しみの中で「もっこ部屋」で暮らすうち、世の中が不公平であること、金と権力のある者は不正を働いても咎められないこと、人足寄場に暮らしている人々の多くは、世間からつまはじきにされ、否応なしに軽犯罪に関わるようになっただけで、本当は、気の毒な境遇の者ばかりだということ、それらがだんだんわかってきて栄二は変わっていく。もちろん彼が立ち直る上において、一途に彼を慕うさぶの存在の大きさが欠かせないことは言うまでもない。
 『赤ひげ診療譚』でも、損得抜きに貧民を診察し心の底から慕われる「赤ひげ」の姿を毎日見るうちに、次第にエリート意識を捨てて人々のために尽くそうと気持ちを変える若い医師が描かれる。山本周五郎の視線はつましく生きる人々に注がれている。
 意外な作品が推理小説だったりということがよくある。『源氏物語』の「夕顔」と「玉鬘」も推理小説として楽しめる。夏目漱石の『こころ』、川端康成の『古都』もそうだ。ちなみに夏目漱石には『趣味の遺伝』という「推理小説」もある。ところで、『さぶ』のラストのどんでん返しにはびっくりした。そういうつもりで読んでいなかったので、不意を突かれた。心が温まり、心地よくなった。(2011/05/11)
next

【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 All You Need Is Book(本こそすべて)
◆ 執筆年 2010年10月15日~