All You Need Is Book(本こそすべて)
17
『蝉しぐれ』藤沢周平
ヒロシゲブルーという呼び名で世界に知られる青がある。藍色のことだ。印象派やアール・ヌーヴォーに影響を与えた江戸の浮世絵。『富嶽三十六景』の葛飾北斎、『東海道五十三次』の歌川広重はその代表で、セザンヌやモネ、ゴッホに多大な影響を及ぼしたのだ。その浮世絵がアール・ヌーヴォーに変質し、そして明治の日本の絵画に影響を与えるのだから面白いものだ。夏目漱石の『吾輩は猫である』や雑誌『明星』、与謝野晶子の『みだれ髪』の本のデザインにはアール・ヌーヴォーの影響が見られる。
ヒロシゲブルーの生みの親である歌川広重が風景画に目覚める瞬間を描いた『旅の誘い』が、わたしと藤沢周平の出会いだ。
この『蝉しぐれ』という小説の紹介を、わたしは「清冽」と「幸福感の永久保存」というふたつのことばで試みてみたい。
まず、「清冽」から。
文四郎もふくも武家に生まれ育ち、自分の立場をじゅうぶんにわきまえ、身を処していく。幼なじみのふたりが、互いに淡い思いを抱(いだ)き合ったとしても、それはたやすく口に出せることではなかったのである。好きなら好きと言い、人目を憚らずに路上を闊歩し、暮らしたければアパートを借り、別れたければ車に荷物を積み、隣の街へとアクセルふかす、というわけにはいかない時代であり、身分なのであった。
ふくはちぎれるような思いを誰にももらさず、江戸住みの藩主の側室になるため、武蔵国(むさしのくに)へと発(た)つ。文四郎は、ふくへの晴らしようのない思いを剣に傾け、数年後、秘伝村雨を伝授されるまでになる。彼の心に住むふくは思った以上に鮮明であった。朝、川で洗い物をしているときに蛇にかまれたふくの指を吸ってやったことや、兄代わりに付き添わされた祭りの夜、ふくが飴をなめていたことなどを、よく思い出す。
文四郎は殺された父が関わった藩の政争に知らないうちに巻き込まれていた。彼にも及ぶ刺客の手から逃れられたのは、卓抜な剣の力量あるがゆえだ。藩内の派閥争いは、藩主の側室になったふくにも飛び火する。文四郎はついに、ふくを救出するため立ちあがった。
ラストシーンは感動的で、ふたりを心から応援したくなる。そして無性に胸が熱くなる。このラストをわたしは「幸福感の永久保存」と呼びたい。だがそれは、決して「幸福」ではない。
この小説のもうひとつの見所。
剣の達人の文四郎が、あまたの強豪たちと白刃を交わし、火花を散らす。それらの場面は臨場感たっぷりで、手に汗握らずにはいられない。
大人になったころには廃れてしまった本ではそうはいかないが、名作を読んだ経験は多くの人と共通の話題になる。(2012/3/8)
ヒロシゲブルーという呼び名で世界に知られる青がある。藍色のことだ。印象派やアール・ヌーヴォーに影響を与えた江戸の浮世絵。『富嶽三十六景』の葛飾北斎、『東海道五十三次』の歌川広重はその代表で、セザンヌやモネ、ゴッホに多大な影響を及ぼしたのだ。その浮世絵がアール・ヌーヴォーに変質し、そして明治の日本の絵画に影響を与えるのだから面白いものだ。夏目漱石の『吾輩は猫である』や雑誌『明星』、与謝野晶子の『みだれ髪』の本のデザインにはアール・ヌーヴォーの影響が見られる。
ヒロシゲブルーの生みの親である歌川広重が風景画に目覚める瞬間を描いた『旅の誘い』が、わたしと藤沢周平の出会いだ。
この『蝉しぐれ』という小説の紹介を、わたしは「清冽」と「幸福感の永久保存」というふたつのことばで試みてみたい。
まず、「清冽」から。
文四郎もふくも武家に生まれ育ち、自分の立場をじゅうぶんにわきまえ、身を処していく。幼なじみのふたりが、互いに淡い思いを抱(いだ)き合ったとしても、それはたやすく口に出せることではなかったのである。好きなら好きと言い、人目を憚らずに路上を闊歩し、暮らしたければアパートを借り、別れたければ車に荷物を積み、隣の街へとアクセルふかす、というわけにはいかない時代であり、身分なのであった。
ふくはちぎれるような思いを誰にももらさず、江戸住みの藩主の側室になるため、武蔵国(むさしのくに)へと発(た)つ。文四郎は、ふくへの晴らしようのない思いを剣に傾け、数年後、秘伝村雨を伝授されるまでになる。彼の心に住むふくは思った以上に鮮明であった。朝、川で洗い物をしているときに蛇にかまれたふくの指を吸ってやったことや、兄代わりに付き添わされた祭りの夜、ふくが飴をなめていたことなどを、よく思い出す。
文四郎は殺された父が関わった藩の政争に知らないうちに巻き込まれていた。彼にも及ぶ刺客の手から逃れられたのは、卓抜な剣の力量あるがゆえだ。藩内の派閥争いは、藩主の側室になったふくにも飛び火する。文四郎はついに、ふくを救出するため立ちあがった。
ラストシーンは感動的で、ふたりを心から応援したくなる。そして無性に胸が熱くなる。このラストをわたしは「幸福感の永久保存」と呼びたい。だがそれは、決して「幸福」ではない。
この小説のもうひとつの見所。
剣の達人の文四郎が、あまたの強豪たちと白刃を交わし、火花を散らす。それらの場面は臨場感たっぷりで、手に汗握らずにはいられない。
大人になったころには廃れてしまった本ではそうはいかないが、名作を読んだ経験は多くの人と共通の話題になる。(2012/3/8)