電車は開いた扇のふちを走る

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 扇形がはやる? 僕はちょっと驚いた。あまりにも扇形のことを考えすぎていたのだ。おしゃべりをしている隣の女子高生たちの大声も聞こえないほど。そういうところへ、扇形という言葉が出てきた。もちろん、彼女たちの話題は僕の考えていることとは全然違っていた。しかし、これがきっかけになり僕は新しい発見をした。それは極めて単純なことである。僕は電車の進行方向の一方しか見ていなかった。ところが、女子高生の方を振り向いたことによって、進行方向のもう一方の窓の景色に気が付いた。そこには、もう一つの扇形の世界が存在していた。電車は、今この瞬間、二つの扇形の一点で接している。この以前では離れていたし、この以後も離れていく。例えれば壊れたファスナーだ。
 つまり、電車が一旦走り出すと、両方の扇形の世界が同時に展開する。ところで、我々は走っている電車の両側の景色を同時に見ることができる。むしろ片方の扇形の世界だけを見る機会の方が少ない。片方の扇形の世界? 僕はその考えに妙に心を引かれた。そこではただ一つの想像上の無限に遠い点の周りを電車がぐるぐる走るのだろうか。僕は興味を引かれるとすぐ行動に移してしまう癖がある。僕は恥ずかしさを捨て去って、子供のように窓に向かい座席に正座して、こちらの扇形の世界の中心になっている無限に遠い点に集中した。そして、視覚のどんな角度からも別の扇形の世界が入って来ないようにした。それはとても集中力を要する作業だった。しかし、そのかいがあって、一つの世界に入り込む感触をはっきりと持つことができた。これはちょっと言葉では表しづらい感覚だけど、大学生の時のある瞬間に突然、俺はこの職業に進もう、と決意した時のように、電撃的にわかったのだ。その世界に入り込んだのとほぼ同時に事故が起こった。原因はわからないが、電車が脱線してしまった。しかし、僕は直感した。僕がこの世界に入り込んだのと電車が脱線したこととは関係があるんだ。ここでぐずぐずするべきではない。タイミングをのがすと、扇形の世界が手の届かないところへ行ってしまう。脱線して止まった電車は扉が開いていた。乗客はほとんどけがをしていなかったが、あわてふためいたり怒り散らしたりしていた。僕は急いで外に出て片方の扇形の世界を歩き回ることにした。

 こちらの世界に来て数カ月が過ぎた。片方の扇形のふちを歩き回ることは予想していたよりも面白いことではなかった。予想なんていう言葉はこの場合当てはまらないだろう。僕は予想すらしなかったのだから、単に好奇心と言うべきだろう。それはともかくとして、僕があの後にしたことは、少し遅れて会社に行き、いつも通り仕事をし、家に戻り、年度末で忙しいから早朝会社に出かけ……、その繰り返しに過ぎなかった。なぜならここは全然別世界ではなかったからだ。見知らぬ土地の見知らぬ街や人々の中に入っていく興奮は少しもなかった。少しの冒険心も不安感も起こらなかった。ここは自分のいた世界と同じ世界だ。初めの数日はそうだった。
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電車

【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 電車は開いた扇のふちを走る
◆ 執筆年 1997年7月