うさぎの穴
3
「だれ?」
声がかすれていた。私は事態を理解することはできなかったが、とにかく彼女を安心させなければと思った。
「ごめんなさい。でも、私は決して悪い人間ではありません。何かの間違いでこの部屋に倒れ込んでしまったようですが、すぐに出て行きます」
私は無意識に両手を挙げて、振っていた。
「いや、お願いです。殺さないで」
女性は涙をこぼしていた。
私ははっと気付いて、右手を見た。作業用のナイフを握っていた。私は強盗殺人犯だと思われているのである。
「違うんです。このナイフは壁紙の修繕に使っていただけなんです。あなたに危害を加えるつもりはまったくありませんので、どうか泣かないでください」
「うう、お願い。殺さないで。殺さないで」
女性はいっそう激しく泣き始め、そのまましゃがみこんでしまった。
ここは女性の住んでいる部屋のようだった。ふとんが敷いてあり、今まで女性が寝ていたところがふくらんでいた。さっき籐製の屏風が倒れ込んだところにふとんが一組あったが、その上に、この女性が寝ていたふとんが積まれていたはずである。ふとんの横に机があり、その横に本棚があった。英語のテキストが多かった。大学の講義で使っているものかもしれない。
私はナイフを床に置いて、滑らした。ナイフは部屋の隅まで滑っていくと、壁に当たって止まった。
「これでいいですか? 私はあなたに何もしませんから、どうか安心してください」
女性はまだ震えていた。
「その左手に持っているものはなんですか?」
女性は泣きながらきいた。
「これはスマートフォンですけど、これが何か?」
「それで私を感電させて、意識を失わせようとか思っているんじゃないですか?」
「違います。これはほんとうにスマートフォンです。別にこれ、普通ですよね。よくあるタイプだと思いますが。あなたもお持ちでしょう?」
「持ってませんよ。スマートフォンってなんですか?」
私は世の中にはいろいろな人がいるから、一見こんなに流行に敏感そうなたぶん女子大生にだって、スマホを持っていないし、また見たこともないという人がいたって決して不思議ではないと考えようとした。しかし、それは少し無理だなあと思い直し、彼女の言葉をどう理解し、どう返事をすればいいか悩んだ。そして、こういうときはやはり当たり前のことを丁寧に説明するしかないと考えた。
「スマートフォンっていうのは、携帯電話のことなんですけど、パソコンと同等の機能を備えている、いわば高性能の携帯電話なんですよ。見たことありませんか?」
女性は少し考えていたが、そのうちに思い当たることがあるような顔をした。
「ああ、そういえば、テレビで見たことがあるかもしれません。今そういう最新の携帯電話が出てきて、インターネットをしたり、音楽を聴いたりできるって」
私は、「今そういう最新の携帯電話が出てきて」というところが、どうしても納得できなかったが、せっかく彼女が私のスマホを感電させる道具ではないとわかってもらえそうな成り行きになってきたので、逆らわない方がいいだろうと思った。
「そうなんです。これもインターネットでいろいろ調べたり、音楽を聴いたりできるんですよ」
女性は、まだ私のスマホを疑念のまなざしで見ることをやめてはいなかった。
「それじゃあ、音楽をかけてみてくださいよ」
「はい。わかりました」
私は、スマホを開き、音楽アプリを開いた。そして、ゆっくりと女の人の方へ近づけ、また女の人の見やすい角度に傾けた。
「あ、本当だ。曲名とかがたくさん並んでる」
「なにかかけてみましょう。知っている曲がありますか?」
女の人は、曲の一覧を見ていたが、「これ今すごくはやってる」と急にいった。
「どれですか?」
「押すとかかるの?」
「はい」
「じゃあ、押してもいいですか?」
「はい。どうぞ」
彼女の細くて白い指がガラス面の一箇所に触れた。
この町を歩けば 蘇る16才
教科書の落書きは
ギターの絵とキミの顔
斉藤和義の「ずっと好きだった」だった。「これ今すごくはやってる」ってどういうことなんだろうか? 私が不思議に思っていると、彼女は不思議そうな声を出した。
「ねえ、この曲聴いたことないわ。どういう曲なの?」
彼女は、私のスマホでほかの曲を見つけてそういった。
それこそ、今すごくはやってる曲だった。私はその曲をかけてみたが、彼女は不思議そうな顔で、聴いたことないなあといった。これも、これも、これも知らない曲、聴いていい? そう彼女はいって、自分で次から次へとかけた。しかし、どれも知らないようだった。
「変だわ。古い曲なの?」
「そんなことないよ。今の三曲は、2020年以降に発表された曲だよ」
「2020年以降ってどういうこと?」
彼女の声の大きさに、私は驚いた。いったい何が彼女をそれほど驚かせたというのだろうか?
「正確にいうと、これが2021年、これは2023年、これは今年の曲だよ」
「今年って、何年のこと?」
彼女がなぜそういう質問をするのか、私にはよくわからなかったが、私は努めて平静を保って答えた。
「2024年」
彼女は大きな目でじっと私を見つめ、しばらく無言であった。そして、無言のまま壁まで歩き、カレンダーを壁のピンからはずして持ってきて、私に見せた。
「ほら、何て書いてある。今年は2010年よ。あなた、大丈夫?」
彼女は、明らかに私の精神を疑っているのだった。
私は、私の精神が正常であることを示そうとした。私はなぜ彼女が2010年のカレンダーを壁に吊るして生活しているのだろうかということを考えながら、スマホのカレンダーを出した。
「ほら、このカレンダーだと今年は2024年だよ」
「ねえ、そのスマートフォンってやつ、インターネットができるんでしょ? ちょっと検索してみて」
「はい。何を検索しましょう?」
「今年。今年って検索すると、たぶん今年は何年ですみたいなことが出てくると思うわ」
「それなら、はっきりしますね。じゃあ、やってみましょう」
私は検索アプリを開いた。すると、インターネットに接続できませんという表示が出てきただけだった。
「おかしいな。電波が弱いのかな?」
私はもう一度やってみた。だめだった。何度やってもだめだった。ほかのアプリも試してみたが、やはりだめだった。電話もかけてみたが、これもだめだった。結局、使えるのは、オフラインでも使用可能な機能だけであった。音楽アプリもダウンロードした曲を聴くことはできるが、検索することはできなかった。
彼女は、途方に暮れている私に対して、今が2010年であることをさまざまな面から証明していった。彼女が見せてくれたテレビや雑誌、パソコンから得られる情報が示すものは、すべて今が2010年であることを立証していた。
そんなことをしているうちに、彼女にとって私は危害を加える者ではなくなっていくようであった。それと同時に、私は彼女にとって憐れむべき者に変わっていったようでもあった。
たしかに私は、機能不全のスマホ以外に何も持っていなかった。身分を証明するものも、金もなかった。そして、ついさっきまでいたはずの自分の家に戻る方法もさっぱりわからなくなっているのであった。本当に私は憐れむべき者だった。私は急に心細くなってきた。そして、ふと、今の私にとって彼女だけが助けを求めることのできる唯一の存在であるかのような気さえしてきたのである。
さっきまでは、どうにかして彼女に自分が危険な人物ではないと証明しようとしていたのに、今は、どうにかして彼女に自分の苦境を救ってもらいたいと祈り始めているのであった。祈っているだけではなく、私は実際に彼女にお願いを始めた。
私は床に膝をついた。
「お願いします。私が元の世界に戻れるように手を貸してもらえませんか?」
彼女は、唖然としていた。
「そういわれても、そもそも元の世界とか、何のことだかわからないんですよね。だいたい何であなたは私の部屋にいるんですか?」
私は正直にこれまでのことを話した。彼女は半信半疑で聞いていたが、途中で突然声を上げた。
「じゃあ、その屏風が倒れた時に、あなたの家から私の部屋にきたというのが本当なら、屏風を反対側に倒したら、あなたの家に戻れるんじゃないかしら?」
そういわれてみると、ちょっと試してみたい気がした。どう考えても元の世界に戻る方法などありそうにない。だったら、彼女のいうことぐらいしか可能性はないんじゃないかと思ったのである。
私は立ち上がって屏風の倒れているところへいき、屏風を立てようとした。今度は明るいから足場もしっかりと確保できたが、屏風は思いのほか重くて、私が苦戦していると、彼女も寝間着のまま近寄って、手伝ってくれた。それで、やっとこ屏風が立ったと思ったら、勢い余ってそのままここへ来た時とは反対方向に私もろとも倒れてしまった。しかし、水平になるまでは倒れず、斜めになった状態で止まった。
声がかすれていた。私は事態を理解することはできなかったが、とにかく彼女を安心させなければと思った。
「ごめんなさい。でも、私は決して悪い人間ではありません。何かの間違いでこの部屋に倒れ込んでしまったようですが、すぐに出て行きます」
私は無意識に両手を挙げて、振っていた。
「いや、お願いです。殺さないで」
女性は涙をこぼしていた。
私ははっと気付いて、右手を見た。作業用のナイフを握っていた。私は強盗殺人犯だと思われているのである。
「違うんです。このナイフは壁紙の修繕に使っていただけなんです。あなたに危害を加えるつもりはまったくありませんので、どうか泣かないでください」
「うう、お願い。殺さないで。殺さないで」
女性はいっそう激しく泣き始め、そのまましゃがみこんでしまった。
ここは女性の住んでいる部屋のようだった。ふとんが敷いてあり、今まで女性が寝ていたところがふくらんでいた。さっき籐製の屏風が倒れ込んだところにふとんが一組あったが、その上に、この女性が寝ていたふとんが積まれていたはずである。ふとんの横に机があり、その横に本棚があった。英語のテキストが多かった。大学の講義で使っているものかもしれない。
私はナイフを床に置いて、滑らした。ナイフは部屋の隅まで滑っていくと、壁に当たって止まった。
「これでいいですか? 私はあなたに何もしませんから、どうか安心してください」
女性はまだ震えていた。
「その左手に持っているものはなんですか?」
女性は泣きながらきいた。
「これはスマートフォンですけど、これが何か?」
「それで私を感電させて、意識を失わせようとか思っているんじゃないですか?」
「違います。これはほんとうにスマートフォンです。別にこれ、普通ですよね。よくあるタイプだと思いますが。あなたもお持ちでしょう?」
「持ってませんよ。スマートフォンってなんですか?」
私は世の中にはいろいろな人がいるから、一見こんなに流行に敏感そうなたぶん女子大生にだって、スマホを持っていないし、また見たこともないという人がいたって決して不思議ではないと考えようとした。しかし、それは少し無理だなあと思い直し、彼女の言葉をどう理解し、どう返事をすればいいか悩んだ。そして、こういうときはやはり当たり前のことを丁寧に説明するしかないと考えた。
「スマートフォンっていうのは、携帯電話のことなんですけど、パソコンと同等の機能を備えている、いわば高性能の携帯電話なんですよ。見たことありませんか?」
女性は少し考えていたが、そのうちに思い当たることがあるような顔をした。
「ああ、そういえば、テレビで見たことがあるかもしれません。今そういう最新の携帯電話が出てきて、インターネットをしたり、音楽を聴いたりできるって」
私は、「今そういう最新の携帯電話が出てきて」というところが、どうしても納得できなかったが、せっかく彼女が私のスマホを感電させる道具ではないとわかってもらえそうな成り行きになってきたので、逆らわない方がいいだろうと思った。
「そうなんです。これもインターネットでいろいろ調べたり、音楽を聴いたりできるんですよ」
女性は、まだ私のスマホを疑念のまなざしで見ることをやめてはいなかった。
「それじゃあ、音楽をかけてみてくださいよ」
「はい。わかりました」
私は、スマホを開き、音楽アプリを開いた。そして、ゆっくりと女の人の方へ近づけ、また女の人の見やすい角度に傾けた。
「あ、本当だ。曲名とかがたくさん並んでる」
「なにかかけてみましょう。知っている曲がありますか?」
女の人は、曲の一覧を見ていたが、「これ今すごくはやってる」と急にいった。
「どれですか?」
「押すとかかるの?」
「はい」
「じゃあ、押してもいいですか?」
「はい。どうぞ」
彼女の細くて白い指がガラス面の一箇所に触れた。
この町を歩けば 蘇る16才
教科書の落書きは
ギターの絵とキミの顔
斉藤和義の「ずっと好きだった」だった。「これ今すごくはやってる」ってどういうことなんだろうか? 私が不思議に思っていると、彼女は不思議そうな声を出した。
「ねえ、この曲聴いたことないわ。どういう曲なの?」
彼女は、私のスマホでほかの曲を見つけてそういった。
それこそ、今すごくはやってる曲だった。私はその曲をかけてみたが、彼女は不思議そうな顔で、聴いたことないなあといった。これも、これも、これも知らない曲、聴いていい? そう彼女はいって、自分で次から次へとかけた。しかし、どれも知らないようだった。
「変だわ。古い曲なの?」
「そんなことないよ。今の三曲は、2020年以降に発表された曲だよ」
「2020年以降ってどういうこと?」
彼女の声の大きさに、私は驚いた。いったい何が彼女をそれほど驚かせたというのだろうか?
「正確にいうと、これが2021年、これは2023年、これは今年の曲だよ」
「今年って、何年のこと?」
彼女がなぜそういう質問をするのか、私にはよくわからなかったが、私は努めて平静を保って答えた。
「2024年」
彼女は大きな目でじっと私を見つめ、しばらく無言であった。そして、無言のまま壁まで歩き、カレンダーを壁のピンからはずして持ってきて、私に見せた。
「ほら、何て書いてある。今年は2010年よ。あなた、大丈夫?」
彼女は、明らかに私の精神を疑っているのだった。
私は、私の精神が正常であることを示そうとした。私はなぜ彼女が2010年のカレンダーを壁に吊るして生活しているのだろうかということを考えながら、スマホのカレンダーを出した。
「ほら、このカレンダーだと今年は2024年だよ」
「ねえ、そのスマートフォンってやつ、インターネットができるんでしょ? ちょっと検索してみて」
「はい。何を検索しましょう?」
「今年。今年って検索すると、たぶん今年は何年ですみたいなことが出てくると思うわ」
「それなら、はっきりしますね。じゃあ、やってみましょう」
私は検索アプリを開いた。すると、インターネットに接続できませんという表示が出てきただけだった。
「おかしいな。電波が弱いのかな?」
私はもう一度やってみた。だめだった。何度やってもだめだった。ほかのアプリも試してみたが、やはりだめだった。電話もかけてみたが、これもだめだった。結局、使えるのは、オフラインでも使用可能な機能だけであった。音楽アプリもダウンロードした曲を聴くことはできるが、検索することはできなかった。
彼女は、途方に暮れている私に対して、今が2010年であることをさまざまな面から証明していった。彼女が見せてくれたテレビや雑誌、パソコンから得られる情報が示すものは、すべて今が2010年であることを立証していた。
そんなことをしているうちに、彼女にとって私は危害を加える者ではなくなっていくようであった。それと同時に、私は彼女にとって憐れむべき者に変わっていったようでもあった。
たしかに私は、機能不全のスマホ以外に何も持っていなかった。身分を証明するものも、金もなかった。そして、ついさっきまでいたはずの自分の家に戻る方法もさっぱりわからなくなっているのであった。本当に私は憐れむべき者だった。私は急に心細くなってきた。そして、ふと、今の私にとって彼女だけが助けを求めることのできる唯一の存在であるかのような気さえしてきたのである。
さっきまでは、どうにかして彼女に自分が危険な人物ではないと証明しようとしていたのに、今は、どうにかして彼女に自分の苦境を救ってもらいたいと祈り始めているのであった。祈っているだけではなく、私は実際に彼女にお願いを始めた。
私は床に膝をついた。
「お願いします。私が元の世界に戻れるように手を貸してもらえませんか?」
彼女は、唖然としていた。
「そういわれても、そもそも元の世界とか、何のことだかわからないんですよね。だいたい何であなたは私の部屋にいるんですか?」
私は正直にこれまでのことを話した。彼女は半信半疑で聞いていたが、途中で突然声を上げた。
「じゃあ、その屏風が倒れた時に、あなたの家から私の部屋にきたというのが本当なら、屏風を反対側に倒したら、あなたの家に戻れるんじゃないかしら?」
そういわれてみると、ちょっと試してみたい気がした。どう考えても元の世界に戻る方法などありそうにない。だったら、彼女のいうことぐらいしか可能性はないんじゃないかと思ったのである。
私は立ち上がって屏風の倒れているところへいき、屏風を立てようとした。今度は明るいから足場もしっかりと確保できたが、屏風は思いのほか重くて、私が苦戦していると、彼女も寝間着のまま近寄って、手伝ってくれた。それで、やっとこ屏風が立ったと思ったら、勢い余ってそのままここへ来た時とは反対方向に私もろとも倒れてしまった。しかし、水平になるまでは倒れず、斜めになった状態で止まった。
