うさぎの穴

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 私は私の家の玄関にいた。私は屏風の上には乗っていなかった。私が乗っていたのは石膏ボードであった。石膏ボードは玄関の壁に当たって、斜めに止まっていた。私は元の世界に戻っていたのである。うれしかった。そして、こういう方法を試してみたらと提案してくれたあの女性に感謝の気持ちでいっぱいだった。
 「わあ、ここどこ? 素敵な玄関。あれ、まだ昼間なのかしら?」
 その声に驚き、私は横を見た。私が感謝の気持ちをささげた彼女の横顔が見えた。横顔はすぐに正面向きになった。
 「あれ? あなたもいる。もしかして、ここがあなたの家かしら? あら、私も一緒についてきちゃった。あら、こんな寝間着姿じゃ恥ずかしいわ」
 そういうと、彼女は石膏ボードを壁に戻し、一人でガレージ側に倒れ込んだ。私には石膏ボードがガレージ内に倒れ込んだようにしか見えなかったが、車にはぶつかっていないようだった。というより、壁の穴の向こう側はぼんやりして見えなかった。キッチンの扉からガレージに行ってみると、壁に穴が開いているだけで、別に車に石膏ボードはぶつかってはいなかった。
 そのうちにまた彼女の声が聞こえてきたので、部屋に戻ると、また石膏ボードが玄関の壁に当たって、斜めになっていた。彼女は着替えを済ませ、化粧をしたのか、とてもきれいだった。
 「私、2024年の世界を知りたい。だめ?」
 私は断る理由がなかった。それに彼女は、ずっと思っていたのだが、高校生の時の同級生に似ていたのだ。私はひそかにその女の子を思っていた。しかし、何も言い出せずに卒業して、それきりだった。
 「じゃあ、私が2024年の世界を教えてあげるよ。さっき2010年のことをいろいろ教えてもらったからね」
 うれしそうに感謝の気持ちを伝える彼女を車の助手席に乗せ、街に出かけた。彼女は車の中ですでに驚きを連発していた。車の前方に障害物が近づくと警告音を発すること。スマホの音楽アプリでかけた曲が車内のスピーカーから流れること。ハンズフリーで電話ができること。そういうことはまだ2010年にはほとんど普及していなかったのである。
 「すごい! CDとかいらないんだね」
 「今はもうCDを買ったり、レンタルで借りたりっていうのは、あまりしなくなったんだよ」
 「そうだよね。これで検索すると全部出てくるもんね。あー、このアルバム、お金がなくて買えなかったんだ。ねえ、かけてもいい?」
 そんな感じで、彼女は、好きな曲をひっきりなしにかけた。
 街の大通りを走っていると、彼女は驚きの声を上げた。
 「この通りの店が全然変わってる。本当に今2010年じゃないんだね」
 「そうだよ。ここはたしかに2024年だ。さっき君の部屋に行ってしまった時は、もう戻れないんじゃないかと思って、怖かったけど、本当にほっとしたよ」
 「今度は、私の方が何だか怖くなってきたわ。私、2010年に戻れるのかしら?」
 「もし心配なら、引き返そうか」
 「大丈夫。戻れなかったら、あなたと結婚するから」
 「え?」
 私は思わず彼女の顔を見た。彼女は笑っていた。
 「ふふふ。大丈夫よ。きっと戻れるって」
 私は、こういう展開になった会話を上手につなぐ技術を持っていなかった。私は、話の流れを、まったくではないが、少し違う向きに変えた。
 「そういえば、昔、何かの小説でこういう不思議な穴が出てきたよ。何度くぐっても必ず同じところに出るんだ。だから、そんなに急には閉じたりしないと思うよ」
 「へえ、何ていう小説なの?」
 「忘れちゃったな。でも、主人公がその穴のことをうさぎの穴って呼んでいたのは覚えているよ」
 「うさぎの穴って、何だかかわいいね」
 私はさっき車の中で予約をした料理店の駐車場に止めた。
 店のウィンドウに映る彼女の姿はうさぎみたいに素敵だった。
 中に入り席に案内されると、私たちは向かい合って腰かけた。
 大通りに面した席だった。よくみがかれたガラスの向こう側に、歩行者や自転車に乗った人が行き来していた。その向こうには、ヘッドライトをともしはじめた車が列を作って青信号を待っていた。反対車線は、北側の道路から左折してきた車が、途切れ途切れに東の方面にテールランプを見せて消えていった。
 料理を待っていると、彼女が私の顔をじっと見つめた。
 「どうしたの?」
 「さっきからずっと思っていたんだけど、あなた、高校の時の同級生に似てるの。ねえ、あなた、坂本君じゃないの? だって、計算すると、そのぐらいの年齢になっていそうだから」
 「やっぱりそうか。俺もさっきから気になっていたんだ。君、三村さんだよね。2010年だったら、大学生のはずだよね。県立文科大学に進学したんだよね?」
 「やっぱり坂本君だ。覚えていてくれたのね。でも、坂本君、すっかりおじさんになったね」
 「それは仕方ないよ。30半ばだからね」
 「なんだか不思議、坂本君が30代なのに、私はまだ大学生なんて」
 「本当だね。三村さんは大学生になっても、高校の時とそんな変わってないよ」
 「やだ、私、そんなに子どもっぽい?」
 「そういう意味じゃないよ」
 「じゃあ、高校生の時から老けていたっていうの?」
 「困ったなあ」
 私が、相変わらずきれいだなという意味さといいかけたところに料理がきたので、言葉を飲み込んでしまった。店のスタッフが立ち去ったので、改めてさっき飲み込んだ言葉を口にしかけると、それよりも一瞬早く、三村さんが別の話題を口にした。
 「坂本君は、今何してるの?」
 私は、三村さんの会話の流れにしたがった。
 「会社の経理担当をしてるんだ」
 「どこの会社?」
 私は、半導体の製造会社の名前をいった。
 「すごい。一流企業じゃない!」
 「運がよかったんだよ。リストラされないように頑張らないとね」
 「大丈夫よ。高校の時から坂本君は真面目にこつこつ勉強していたから」
 「なんのとりえもない地味な高校生だったからなあ」
 「地道が一番よ」
 「ありがとう。お世辞だとしてもうれしいよ」
 「お世辞なんかじゃない。私、坂本君を見習って、真面目に勉強するようになったのよ」
 「えっ?」
 「山本先生覚えてる?」
 「ああ、2年生の時の担任だったよね」
 「そう。私の成績が落ちた時、面談をしてくれて、坂本君みたいに地道に勉強するといいと思うよっていわれたの。それで坂本君を見ていたら、本当にいつも地道にやってることに気付いて、私も真似するようになったんだ。だから、私が公立大学に受かったのは、本当に坂本君のおかげなの。いつかお礼をいおうと思ったんだけど、いいそびれたまま卒業しちゃったの」
 私は、なんだかうれしいようなこわいような気持ちになった。世の中には、何もいわないけど自分のことを見て真似している人がいる。そんなことは今まで考えたことがなかった。自分のやっていることは、結構いいこともわるいこともいろいろな人に見られているのかもしれない。私は気持ちが引き締まるような気がした。それから、私はなぜ三村さんのことが気になるようになったのか思い出していた。そして、それは、この三村さんの話題と関係があったのかと、ちょっと驚いていた。
 私は、高校生の時、いつも学校の図書館で勉強をしていた。2年生になったある日だった。図書館に三村さんがやってきた。図書館で勉強する人というのはだいたい決まっているから、あれっと思った。しかし、そういうことはしばしばあるのである。
 それはともかく、三村さんも図書館で勉強するのかと思うとうれしかった。なにしろ彼女は男子に人気があったのだ。私はそういう競争には勝てないだろうと思っていたので、こういう形で身近にいられるようになれば幸せなことだと思った。ただ図書館で勉強を始めても続かない人が多い。三村さんもすぐ来なくなるかなと心配をした。
 ところが、翌日も三村さんは来た。その翌日も三村さんは来た。それ以後も毎日、彼女は休みなく図書館で勉強した。私は彼女のところに近づいたり、話しかけたりする勇気はなかった。三村さんも私のそばに来ることはなかったし、私に注意を払う様子も見せなかった。ただ、図書館への出入りや何かの用で館内を移動する時などに、彼女と目を合わせることが時々あった。そんな時彼女は何かいいたそうに見えた。しかし、それは私の気のせいだろうと思った。それなのに、夜寝る時などに、彼女のその時の表情を思い出して、やっぱり彼女は私に何かいおうとしているんじゃないかと考えることがあった。明日会ったら話しかけてみようとその時は思うのだが、翌日図書館に行くと、そんなことをする勇気はとても出なかった。
 チャンスというものは訪れるものである。しかし、それは、皮肉な形で訪れるということがしばしばである。
 三村さんはある日、私の席に来た。わからないところを教えてほしいといった。それからも時々そういうことがあり、私たちは少しずつ親しくなった。しかし、要件以外のことを話すところまでの間柄にはなかなかならなかった。
 それでも、ある時三村さんは、「坂本君はこういうの聴く?」といって、CDを持ってきた。私はありがたく貸してもらうことにした。それはパソコンに読み込んで、今でもたまに聴いている。
 三村さんは、またある時、「この間貸したCDのバンドが文化センターに来るんだよ」といった。私は、「俺、行きたいな」といった。「じゃあ、一緒に行く?」と三村さんがいい、話がまとまりかけた。
 ところが、日付を聞くと、それは別の人と映画に行く約束をした日だった。私は涙を呑んで断った。三村さんは、まったく気にしていないようだった。「また、機会があったら、一緒に行こうね」と笑顔を見せて、去っていった。
 その時の私は、一生に得られる女性との縁のほとんどがすべて集中していたんじゃないかと思うほど、幸運な時期にあった。といっても、三村さん以外にあと一人の女の子とお近づきになったというだけのことなのだが。
 この女の子とも図書館で出会った。1年生だった。彼女も私にわからないところを聞きに来たのだった。私が三村さんに教えているのを聞いて、同じようなところを自分もわからないので、教えてもらいたいといっていた。彼女は教えていると、すぐに違う話題を口にした。食べ物屋や映画などの話題だった。それでなんとなく映画を一緒に見ようということになった。映画を見る前日に、「明日の映画楽しみですね」と彼女がいって、私が「そうだね」と返事をしている瞬間に、三村さんが二人の脇を通り抜けた。私はまったく気付かなかった。通り抜けて、席に着いたときに、三村さんだと思い、しまったと思ったのである。私は文化センターのコンサートにいけない理由を三村さんにいわなかったのだが、三村さんは今その理由がわかったのである。私はいたたまれなかった。図書館から出て行きたかったが、1年生の女の子はそんな私の内心には気づかず、楽しそうに明日のことを話し続けた。三村さんは少しすると図書館から出て行った。そして、その後三村さんと話すことはなかった。
 1年生の女の子とは、何度か映画を見たり、何かを食べに行ったりした。しかし、ある時、彼女は1年生の廊下を1年生の男子と仲良さそうに歩いていた。その時から私は図書館へは行かなくなった。彼女も2年生の教室にまで私を探しに来ることはなかった。
 チャンスは訪れるものである。しかし、それは、皮肉な形で訪れることがしばしばである。
 私の頭の中にそういう概念が形成されたのはその時だったのである。
 「ねえ、坂本君、結婚してるの?」
 私は、その声で回想から現実に引き戻された。
 ぼんやりしていた私は、三村さんのいっていることを理解するのに必要以上に時間がかかったが、はっきり何をいわれたか認識すると、驚いて大げさに反応した。
 「結婚! いや、まだだよ」
 三村さんは驚いていた。
 「えー、だって、もう30半ばなんでしょ」
 「だって、しょうがないでしょ。相手がいないんだから」
 「ふーん」
 三村さんは、ふざけているのか、本気なのか、よくわからないような表情と口調でいった。
 「じゃあ、私と結婚する?」
 私は内心うれしく思ったが、何といったらいいか言葉を探しているうちに、彼女が笑いながらいった。
 「できるわけないでしょ」
 それを聞いて、私は結構がっかりだった。そして、冗談交じりという感じのいい方にして、なるべく軽めにいってみた。
 「なんだあ、がっかり」
 「だって、2010年の私が2024年のあなたと結婚したら、2011年から2024年までの私はどうなっちゃうの?」
 私は頭をかしげた。
 「わからない」
 「でしょう」
 「でも、何か大変なことになるかも。逆に俺が2010年の世界に行って、2010年の君と結婚したら、2011年から2024年までの独身の俺はどこ行っちゃうんだろ?」
 「そうだよね。だから、もし結婚するとしたら、私が2010年に戻って、2024年まで誰とも結婚せずに、私と結婚の約束したと認識した後のあなたのところへ行って、約束どおりに結婚するしかないでしょうね」
 「なんだかややこしいね」
 「そんなことないよ。だから、私がいったん2010年に戻るでしょ。そして、そのまま2024年まで待つ。で、今のあなたにとっての明日という日になったら、私が再び現れるの」
 「明日?」
 私は三村さんの目を見た。三村さんは真剣な目をしていた。
 「明日っていうのは仮定の話よ。だけど、明日以降ならいつであっても、私たち結婚しても問題ないんじゃないかしら? 理論上は」
 「理論っているのは、要するに、俺たちがうさぎの穴を使って出会うのじゃなくて、自然の状態でいる世界で出会う時なら、婚姻関係を持っても宇宙に影響を及ぼさないんじゃないかってことだね」
 「坂本君のいってることのがややこしいよ」
 「そうかな?」
 「でも、わかるわ。たぶんそういうことなのよ。うさぎの穴を通り抜けてきた大学生の私が、一流企業に就職した坂本君と結婚したりしたら、やっぱりまずいもん」
 「そっか。大学生の君がここにいるけど、それと同時に30半ばの君も君の家にいるはずだもんね」
 「そうよ。ねえ、30半ばって、いちいちいわなくていいわよ」
 私は、ちょっと改まった感じでいった。
 「ねえ、いったん2010年に帰っても、君はずっと俺と結婚する約束を覚えていてくれるの?」
 三村さんも少し神妙な表情になった。その表情がいとおしかった。
 「それは、私が聞きたいわ。あなたは私が15年近く待ち続けて会いにいったら、約束を果たしてくれるのかしら?」
 「もちろん」
 私はきっぱりといった。
 「だって、あの時は、私とコンサートに行かないで、ほかの子と映画に行ったんでしょ?」
 やっぱり三村さんはあのことにこだわっていた。
 私は三村さんにあの時の気持ちを説明した。1年生の女の子とたしかに映画を見に行ったが、やっぱり三村さんとコンサートに行きたかったのだと。あの女の子とはすぐに別れ、何もなかったのだと。
 「信じていいのね」
 「もちろん。君が俺と結婚するっていうことも本気でいってるんだね? 信じていいんだね?」
 三村さんは真面目にうなずいた。
 「でも、俺たち、ただの高校の同級生で、たまたま図書館で一緒に勉強しているうちに、コンサートに行く約束をしたけど、結局何の進展もなく今日まで会うこともなかった二人なんだよ。本当にそんな薄い重なりの男と結婚なんていう人生の重大事をこんなに簡単に決めちゃっていいの?」
 三村さんは少し上目遣いに私を見た。私の心はますます彼女に引きつけられていった。
 「ねえ、坂本君、本当に私が勉強をする目的だけで図書館に通い始めたと思う?」
 私はうれしくて、涙が出そうになった。
 「三村さん、俺はあの時君とコンサートに行かなかったことを、こんな年になるまでずっと後悔しているんだよ。俺は君にまた会って謝って、許してもらいたいとずっと思っていたんだけど、どうしても君に話しかけることができなくて」
 私は涙をこらえることができなかった。
 三村さんも涙を流していた。そのうちに鼻をかむと、涙まじりにいった。
 「私、思うの。今回こんな不思議なことが起こったのは、私たちの思いがずっとあるからじゃないかなって。私だけでもだめだし、あなただけでもだめなのよ」
 「きっとそうだね。俺はずっと君のこと思っていた。約束するよ。君が明日俺の家に来たら、結婚してほしい」
 「私も約束するわ。私は2010年に帰って、それから30半ばまでずっと誰とも結婚しないでいるから、2024年にまた会いにいったら、結婚してください」
 不思議な約束だった。それは三村さんにとっては長く、私にとっては短い待ち時間だった。三村さんはきれいで若い。私にとっての明日が来るまでの間に、たくさんの結婚の申し出に直面するだろう。それを全部断ってまで結婚する価値が果たして私にあるのだろうか? そういうこともいったのだが、「こんな不思議なうさぎの穴で結びついた二人なんてほかにいると思う? こういう奇跡を信じなかったら、私は誰も愛せなくなってしまうわ。私にはあなたしかいないのよ」といったので、それ以上私は何もいうことができなかった。
 私は、「ありがとう。俺にも君しかいない」といって、三村さんの目を見つめ、「じゃあ、実行しよう」といった。
 私たちは、食事を終え、私の家まで戻った。三村さんとの別れはとてもつらかった。このままここで暮らしたいという気持ちと何度も私は戦った。彼女もつらそうな表情をしていた。だけど彼女はついに、後ろを向きながら、石膏ボードもろとも倒れていこうとした。
 「待って」
 私は三村さんを少し待たせ、二階に行き、ガレージを開けるスイッチの予備を持ってきた。
 「三村さんが俺の留守に来たら、これでガレージを開けて、中で待ってて」
 私はスイッチを三村さんの白くて小さな右手に握らせた。三村さんは僕の右手を両手で包み込んだ。しばらくそうしていた。私は自分の気持ちとまた戦い、手を三村さんから離した。
 「じゃあ、また明日」
 三村さんはいった。
 「うん、明日また会おう」
 私がうなずくと、三村さんは私の目を見ながら石膏ボードを倒した。すぐに彼女の姿が見えなくなった。そこには長方形の空間があるだけだった。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 うさぎの穴
◆ 執筆年 2024年